自分の「動き」をよく眺めてみると、自分が一体何をしているかがわかってくることがあります。

「うごきの気づき」は、その小さな出来事を、暮らしのあちこちに置いていくための、こころみです。

なぜ、動きに気づくとわかってくることがあるのでしょうか?

私たちはみんな、一度、「動き」を発明したことがあります。
赤ちゃんだったころ、重力とやりとりしながら、寝返りを、起き上がることを、座ることを、立ち上がることを、だれに教わるでもなく見つけました。
そして興味のあるほうへ、歩きはじめたはずです。

その力は、もっと古いところから来ています。
魚だったころの、背骨のうねり。
腹這いで進んだ時代の、手足のつかいかた。
この身体には、生命がたどってきた動きの系譜が、いまも宿っています。

文明のなかの暮らしは、動きの可能性のほんの一部しか使わないことが多いです。
決まった椅子、決まった画面、決まった道順。
それで快適なら、なにも問題はありません。
ただ、動きに気づくほど、選べる動きは増えていきます。世界の見え方も、すこしずつ広がっていきます。

もし身体のどこかに、不調や違和感があるのならば、
それは、身体が忘れてしまったのではなく、思い出すきっかけを待っているだけなのかもしれません。

気づくだけで、身体は変わりはじめる。
それは魔法ではなくて、思い出す力が、もともと身体に備わっているからです。

この考え方の源流

モーシェ・フェルデンクライスという物理学者が、半世紀以上まえに体系にした、フェルデンクライス・メソッド。動きを直すのではなく、動きに気づくことをとおして、人が自分で学びなおしていく方法です。

まどの「さぐる」にある音声は、そのレッスン、ATM(Awareness Through Movement/動きをとおした気づき)のかたちを借りています。快適な姿勢で、声にさそわれて、小さく動いて、感じる。それだけのレッスンです。正解はなく、できなくてもよく、気持ちよく動ける範囲で動きを眺めるだけで十分です。

私は作業療法士として人の暮らしと身体にかかわるなかで、この方法に出会いました。

ここに置いてあるもの(カード、栞、文章、音声)は、動きの気づきの種です。
どんな風に育つのかは、それぞれの楽しみです。
関わる人の暮らしのなかで、いつか芽が出て、毎日が少し軽くなればと願っています。

もし、ひとりで聴くだけでなく、生の声で、ほかのだれかと一緒に動いてみたくなったら、そのような場も、開催しています。

まどをのぞいてみる